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[謹告]ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008期間中はお休みします

理由は、そっちに出かけてて忙しいので(笑)

 いやまぁ、気が向いたら何か書くかも知れませんが、そんなわけで連休中はこちらの更新は多分御座いませんので、あしからず。

 期間中は、下記の別館の方でレポートをアップしておりますので、宜しくお願いします。

 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008 & 普段のコンサート通いのblog




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[ラ・フォル・ジュルネ]シューベルト:交響曲第8番 D.795「未完成」(5/1)

F.Schubert : Symphony No.8 B minor, D.795 "Unfinished" / "Die Zauberharfe" Overture D.644 / "Rosamunde" D.797 - Ballet Music No.1 and 2
 Wiener Symphoniker
 Nikolaus Harnoncourt (conduct)
 TELDEC 0630-14537-2

 もう、日付は5月2日になってしまいました。夜が明けた今日から、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008が始まります。
 昨年同様、ラ・フォル・ジュルネ関連の楽曲を4月は紹介しようと思っていましたが、色々あって果たせずに当日になってしまいました。いや、他の話を延々書いてたとか、単純に忙しかったとかいうことは勿論あるんですが、実は、一番大きかったのは、「書きたくても書けない」だったりします。
 私は成り行きでVerdiなんてハンドルを使ってますが、作曲家として本当に一番好きなのはシューベルト。「冬の旅」なんて本気で書き始めればなんぼでも書くことがあるし、他の歌曲だって幾らでも書ける。涙無くしてどころではない、戦慄を伴わずに聞くこと能わぬ弦楽五重奏だって書いてない。ピアノ曲だって、D.960は書いたけど、D.959やD.958、即興曲集だって楽興の時だって書いてない。
 書けるけど、おいそれと書けないんです。半端に書けないから。別に普段の記事が半端だなんて言ってる訳ではないのですが、やはり、何処か書くに躊躇してしまう部分がある。好きだから、手を付けかねていたというのが正直なところです。

 でも、それじゃしょうがないんでね(苦笑)まぁ、失敗です。なので、改めて書いてなかった一曲を。未完成。でも、この曲、「ラ・フォル・ジュルネ」を謳う前に、ミュンシュの録音で取り上げたんですけどね。その時の記事がこちら。

 今にして思うと、ってたかだか3、4ヶ月前の話ですが、この時私、アーノンクールを引き合いに出してるんですね。「アーノンクールなら、もっと各々の響いている音の構成が分かるように聞かせるんじゃないか」なんちゃって。
 で、実際どうかというと、そうでもあり、そうでもなし。一番大きいのは、アーノンクールが振っているのが、コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンみたいなとこでなくて、ウィーン交響楽団だということ。あそこはなんだかんだ言って、あくまで現代オーケストラですからね。ただ、確かに、アーノンクールのアプローチは、渾然一体とした響き、という方向ではない。やはり、各々が分かるように、とまではいかなくても、誰が何やってるかを見極める方向ですね。

 シューベルトの話でした。

 未完成というのは結構妙な曲で、今一般に聞かれているのは、途中まで書かれた結果、とされている、第1・2楽章の2楽章のみ。これが、どちらも遅めの音楽で、聴感上は同じようなテンポの音楽が続く。しかも、どちらも基本は短調。第2楽章は長調ではありますが、転調しながら進む音楽には、常に短調の影がまとわりつく。さらに言えば、聴感上も未完成。少なくとも、交響曲としての始まりと終わりがある、という感じではない。なのに、何故かこの曲人気があります。
 何がそんなに惹き付けるのか?
 単純に言えば、よく言われる「デモーニッシュなもの」に惹かれるのでしょう。よくあるありきたりの説明ですが、でも、やはりそこだと思うのです。
 シューベルトに終始つきまとうのは、この影です。陽の当たるところ、必ず陰が生まれる。陰と陽、と言ってしまえばそれまでですが、それまでの音楽家の大半は、陰そのものを織り込んで表現しようとはしてこなかったのではないかと思います。この「陰」を描くことに成功したのが、シューベルトではないかと。我々がシューベルトに求めるのは、陽の光に照らされたものではなく、その陰になってひっそりとあるもの、ではないでしょうか。
 この「未完成」にしても、表に見えている雄弁なるもの - それが短調であろうと長調であろうと - に対し、その陰にあって、音楽の中に織り込まれているもの、その部分に惹かれるのではないかと思うのです。
 そういう面はシューベルトのどの作品にもあると思うのですが、やはり、一般に名高い曲は、某かそうした二面性を持っているように思います。それがシューベルトを聴くポイントの一つ、というには、ちょっと時機を失してしまってはいるのですが。





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[ラ・フォル・ジュルネ]シューベルト:さすらい人幻想曲 D.760 (4/4)

シューベルト:さすらい人幻想曲 D.760(*)
シューマン:クライスレリアーナ op.16 / 森の情景

 ブルーノ・レオナルド・ゲルバー (*)、ミシェル・ベロフ (piano)
 東芝EMI/新星堂 SAN-49

 また古いCDを持ち出してきました。以前も別の録音を取り上げた、新星堂の廉価盤シリーズです。1992年頃発売のもの。演奏者がゲルバーとベロフ。1970年代の録音で、ベロフもいいのですが、今回はゲルバー。例によって、演奏のセンスはいいのですが、帯の惹句が凄い。今回は「ピアノ......その深遠な響き。」.............いや、だから、どうしろと........

 シューベルトという人は本当にややこしい人で、自分は正統的な作曲家ではない、というコンプレックスを抱いていたらしい、というのは前にも触れたと思います。まぁ、確かに、今から見返してみれば、ロマン派のハシリであったと見えても、それは後からの話。ロマン派の方向へと突っ走って行ったベートーヴェンを後ろから見ながら、さて自分はどうすりゃいいんだと立ちすくんでいたであろう当人にしてみれば、たまったもんではなかったのでしょう。
 シューベルトには、後年であれば「ソナタ」と堂々と書かれたのではないかと思えるような作品に、「幻想曲」といった作品名が付いているケースがままあります。前に取り上げたヴァイオリンとピアノの為の「幻想曲」とか、今は独立した4つの曲で出来ていると見られている「即興曲集」もソナタの一種と看做す向きもあります。そして、この「さすらい人幻想曲」もそう。後のシューマンの「幻想曲」やリストの「ソナタ」にも影響を与えたと言われているらしいこの曲ですが、それらに比べればよほど「ソナタ」らしいとも言えるのに、あくまで「さすらい人幻想曲」なのです。

 曲自体はとても面白い曲です。題名は、第2楽章の主題を取って来た歌曲「さすらい人」に由来するのですが、全体は第1楽章で出て来る主題を全体に渡って繰り返し変奏しながら展開して行く4楽章構成。第1楽章は、ソナタ形式と言えなくもない展開をしつつ、第2楽章で短調に転じて、「さすらい人」の主題を変奏して行く。この2つの楽章の展開は、後のD.800番台以降のソナタに通じるものがあります。第3楽章では、冒頭の主題を使いながらトリオ楽章のように続けて行き、最後はよりスケールの大きなフィナーレへと繋いで行く。
 厳密な意味ではソナタ形式とは言えないであろうこと、全体が「4楽章」とは言いながら切れ目無く続いて行くこと、主題が繰り返し使われる上に、題名の通り歌曲の引用もあることなど、確かに古典的なソナタ、というには抵抗があるのは確かなのですけどね。
 だからといってそんなに遠慮しなくても、という気はします。そのへんがシューベルトらしいと言えばそうなのですが。

 実はこの曲、不思議なことにそれほど聞く機会は多くはありません。やはり「ソナタ」の方がいいんでしょうか。生演奏もそうですが、録音でもあまり多くはありません。ソナタの全集なんかには、即興曲集などと並んで収まるようにはなってますが。シューベルトにしては、比較的簡潔な割にスケールも大きくて、面白い曲なんですが.....ちょっと技巧的と言うか演奏効果が目に付き過ぎて敬遠されるのかな?
 ゲルバーの演奏は、スケールの大きさを上手く活かした演奏で、この曲の良さがよく出ています。私は結構高評価です。



[ラ・フォル・ジュルネ] シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番 (3/29)

F.Schubert : Piano Sonata No.16 A minor, D.845 / 3 Klavierstuecke D.946
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 422 075-2

[ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのサイトはこちら]

 シューベルトはまず歌の人。次にピアノの人、と言ってしまうとちと乱暴でしょうか?
 まぁ、シューベルトといえば、交響曲は「未完成」と「グレート」、「ます」と「魔王」と「野ばら」、そして即興曲に楽興の時、といったあたりが定番ですから、当然と言えば当然ですが。
 今日はその中でも、「のだめカンタービレ」にも出て来て、何故か人気曲になってしまったこの曲。ピアノ・ソナタ第16番、D.845。実は、今回のラ・フォル・ジュルネでは、あんまり演奏回数は多くないみたいなんですけどね....

 前にも書きましたが、この曲、いい曲ではあるけれど、若干地味目の曲ではあります。劇的表現もあるにはあるけれど、のだめが言う「シューベルトは気難しい」と言いたくなる気持ちもわからんではない曲です。
 まぁ、シューベルトのピアノ曲の魅力の一端は、実はそういうところにあるのだと思いますけれども。弾けるような開放感、とか、悲劇的な結末、みたいなはっきりしたカタルシスが必ずしもはっきりせず、内へ内へと沈潜して行く曲が少なくない。まぁ、流石に最終楽章はそうなっていることも多いけど、そこに辿り着くまでが大変。語弊はありますが、実は結構人によって向き不向きのある音楽かも知れません。プロの演奏家としては、ちょっと試しに手を出してみる、ではすまない部分があるのだと思います。
 思えば、シューベルトをプロフェッショナルとして取り上げるピアニストは、実は限られているように思います。演奏家として専門の作曲家を持つようになる、というのは、現代の演奏家に見られる傾向で、特にピアニストにはその傾向が強いようにも思いますが、シューベルトの場合、結構前からそういう傾向は強かったのではないでしょうか。それは、必ずしも「そういう傾向」では済まないような気がします。言い換えると、シューベルトの場合、やはり独特の内省的な傾向を上手く処理出来るか否かに鍵があるのではないかと思うのです。

 4楽章構成で、緩-緩-急-急のシューベルト独特の構成です。最初の緩は中庸と称すべきかも知れないですが。この構成は、実は第21番のそれと同じパターン。非常にリリカルで沈潜するような前半から、一気に駆け抜けて行くような後半。よく似ています。前半楽章の重苦しさで聞かせる魅力もよく似ています。確かに、こういう曲と一戦交えて、お客に納得行くように聞かせるのは、なかなか大変なものだと思います。

 ブレンデルは、現役最年長世代としては、最もシューベルトを得手として来たピアニストだと思います。当代の第一人者でしょう。その前の世代にはケンプなども居たけれど、シューベルトのソナタを全集に近い形で二度録音しているのは、今のところブレンデルくらいじゃないかと思います。
 そのブレンデルの演奏、個人的には結構複雑なところです。いい演奏だと思いますし、実演でも聞いたこともあるし、いいと思います。概して。でも、繰り返しを結構省いたりしているのが、玉に瑕なんですよね。そこが個人的には許せなかったりするのだけど。
 とはいえ、演奏それ自体は、確かに素晴らしい。現役のシューベルト弾きと言えば、シフ、ピリス、白井光子も一応、あたりが浮かびますが、やはりブレンデルは大御所としては外せない。自信を持って繰り返しを省いて来るだけのことはあって、全体の構成を睨んでの演奏にしても、個々の細部に渡る表現にしても、一貫してブレが感じられません。そこがブレンデルの魅力でしょうか。
 このCDには、D.946の3つの小品がカップリングされています。「小品」と言っても、実際には「即興曲」とも称されることのある作品群。一曲一曲が結構長いのですが、その中にいろんな表情を持っていたりして、なかなか面白い曲集です。ここでのブレンデルも、面白い。自分の中の音楽的な抽き出しを幾つも動員して、多彩な音楽を聞かせてくれる。そんな感じです。そう、芸達者とは言わないけれど、シューベルトは、結構複雑。いろんな抽き出しを求められる音楽かも知れません。しかも、「これを売りにしておけば大丈夫」というのがあるとも言えないから、大変なのかも知れないです。





[ラ・フォル・ジュルネ]シューベルト:「白鳥の歌」 (3/14)

F.Schubert : Schwanengesang D.957, 5Lieder
(Sehnsucht D.879, Der Tod und das Maedchen D.531, Auf der Bruck D.853, Fischerweise D.881, Der Wanderer D.493)

 Nathalie Stutzmann (contralto)
 Inger Soedergren (piano)
 CALIOPE CAL9359

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのサイトはこちら

 いよいよ今日からチケットの一般発売も始まった、ラ・フォル・ジュルネでありますが、今年はシューベルトということもあって、声楽曲が目白押しです。

 歌というのには、詩が付いている以上、その内容によっては性差があります。何も難しい話ではありません。恋人であった娘の不実を嘆く歌であれば、まぁ歌ってるのは青年であろう、というように考えるのが、19世紀以前の歌曲であれば取り敢えずは自然というものでしょう。
 ただ、そうは言っても、だから"男性" の歌は女性は歌いません、"女性" の歌は男性は歌いません、とはならないものではあります。確かに歌詞の中での語り手の性別と、実際の歌い手の性別が一致するのであれば、その方がより「それらしい」ということにはなるのでしょうが、だから「歌うべきではない」とも言えないのでして。実際、歌うに相応しい声の持ち主なら、必ずしも性別にこだわる必要もないのでしょう。
 例えば、今回のラ・フォル・ジュルネでは、メゾソプラノの白井光子がシューベルトの歌曲集「冬の旅」を歌います。でも、この歌曲集、明らかに「主人公」は青年男性なんですよね。冒頭に挙げた「恋人だった娘の不実を嘆く」そのものなのであります。そういう観点からすれば、これは少々おかしいのではないか、とも言えるのです。
 でも、実際にそのようにして歌われるのが違和感があるかというと、必ずしもそうでもない、とも言えます。歌手の中には、そうしたことについてあまり前向きに評価しない向きもありますが、上手に歌えるのならいいじゃないか、という考えはあるのだと思います。実際、J-POPや演歌なんかで、女性が主人公の歌を男性が歌い、男性が主人公の歌を女性が歌っているケースは決して少なくないのですし。

 「白鳥の歌」は、必ずしも男性が主人公の歌曲集、という訳ではありません。そもそも、「冬の旅」や「美しき水車屋の娘」と違って、この歌曲集は全体にストーリーのあるものではなく、言わば単発の歌曲を集めたもの。とはいえ、そもそも詩を書いたのが皆男性で、内容的にも多分主語は男性と思われる詩ばかりです。なので、基本的に皆「男性の歌」ではあります。でも、ストーリー性が無い分、違和感は少ないかも知れません。もっとも、ここで取り上げたナタリー・シュトゥッツマンは、「冬の旅」だって歌っているのですから、「白鳥の歌」くらい不思議はないのかも知れません。
 一方、聞き手の話で言えば、私は日本語が母国語の日本人で、ドイツ語は分かりません。いや、多少は分かりますけど、ドイツ語で1分間スピーチしろとか、会話を成立させろとか、辞書無しで読めとか言われると、とてもとても。なので、そもそも女声で歌われているドイツ語の歌が何を歌っているのか、よく分かりません。ネイティヴだったら分かるであろう「変な感じ」がピンと来ないんですよね。予め日本語で意味は分かっていたりするけれど、歌われる言葉と、状況と、ニュアンスとが、リアルに理解出来てはいない。
 それってつまり、分からない、分かってない、ってことなんじゃないの?と言われると、一言もありません。それなりに調べてるとか、聴き込んでるとか、言い訳するつもりはありません。そう、自分でも思うけど、やっぱり「分からない」のです。

 でも、じゃぁなんでドイツ歌曲なんて聞くの?と言われると困ってしまうのですが.......... 実はやっぱり「わかる」んだと思うのですね。
 「白鳥の歌」の中に、「セレナード」という歌があります。「シューベルトのセレナード」として、何処かで耳にしたことがあるかも知れない。なかなかにおセンチなメロディですが、そんなことを言ってみてもなかなかに魅力的な曲です。でも、この歌で何を歌われているか、正確に御存知でしょうか?多分、大抵の人は御存じないのでは。いや、私だって一言一句知ってる訳じゃないです。
 「セレナーデとかいうんだし、恋人にあてて、愛してるとかなんとか歌ってるんじゃないの?大体が恋歌なんてそんなもんだし、それでいいんだよ。」はい、その通り。実際、そんなとこなんですけどね。「恋人よ、ここへおいで!」みたいなね。で、その程度の「分かり方」で聞いている我々が、じゃぁこの「セレナーデ」という曲を「わかっている」か、と問われれば、多分YESでありNOだと思うのです。
 こういう分かり方が結構横着なものだというのは、自分でも自覚はあるのです。本当は、ドイツ語ならドイツ語をある程度分かった上で、これはどんな歌か、と熟読玩味するべきだし、出来るべき、なのでしょう。それでなければ「分かった」ことにはならないし、なんで男性の歌を女性が歌うの?という違和感なんて本当はわかりっこない。
 でも、そうでなくても、我々は「分からない」ドイツ語で歌われる歌を聴いて、その旋律や、歌われる声の調子などから、大体どんな歌であるか、「わかる」し、その上で、音楽としていいか悪いか、ということも、相応に「わかる」と思うのです。その「わかりかた」が決して間違っているとは思わないのです。

 私の知人で、ドイツ語に一応堪能で、というのは現地で歌を勉強していたことがあるから、という人がいるのですが、彼に言わせると、例えば英国人のボストリッジのドイツ語はやっぱりおかしい、ということなのだそうです。別に当人がもっと上手いとか言ってるのではなくて、ボストリッジのドイツ語はネイティヴのそれと明らかに違い、フレーズの切り方がドイツ語の自然な箇所ではない、英語にとって自然な箇所だ、というのです。.......んなこと俺に言われてもわからん(笑)
 でも、彼は同時に、でもそれって聞き手にとっては別の問題かも知れないよね、とも言うのです。それにも私は同意します。聞き手にとっては、完璧に分かっている訳ではない「わかり方」でも楽しむに支障はないし、そうして得られる感銘というものが決して勘違いではないんだろう、とも思うのです。
 でないと、そんな風にしてしか歌曲やオペラを「わかってない」私はどうすりゃいいの(笑)でも、大抵の聞き手は、私と同様、そういう「わかり方」なんじゃないかな、と思うのです。それって、日本で伝統的に受け入れられているだけの考えかも知れないけれど、決して的外れではないと思うのです。
 「白鳥の歌」はレルシュタープ、ザイドル、ハイネの3人の詩人の詩を元に書かれた14曲からなりますが、ハイネの詩による曲の中にDoppelgaenger、「影法師」という歌があります。失恋した相手がかつて住んでいた家の前に、夜、誰かが立ち尽しているのを私は見た。おお、あれは、私自身ではないか!こんな夜更けにお前は何をしているのだ!そんな内容の歌です。ちなみに、自身の影法師を見た者は死ぬ、という言い伝えがあるそうで、つまりはこれはとても不吉な歌。その内容を示唆するように、シューベルトは極めて重苦しく、恐ろしい曲を付けました。
 内容的には男性が主語になる歌なのですが、男性が歌うと、最後は恐ろしいフォルティッシッシモで終わるのが常で、それは楽譜通りなのですが、シュトゥッツマンはそこまでの激しい終わらせ方はしていません。実はこれも楽譜通りで、要はどちらに力点を置いているか、の差だと思うのです。これはどっちがいい悪いではないと思うのです。シュトゥッツマンの「私」は、己の影法師に戦いてはいるけれど、同時に、その影法師が体現する「私」の哀しみに直面し、改めて動揺し、或いは悲しんでいる。そのようにも聞こえるのです。
 言葉が分からなくても、そういうことは一応わかることはわかる、と思うのです。

 声楽曲は言葉がよく分からないから苦手、という理由で敬遠される方もおられるのですが、それは勿体無いな、と思うのです。今度のラ・フォツ・ジュルネは、声楽曲が多く演奏されます。もう、今日から一般発売なので手に入らないかも知れないけれど、こういう機会に、「外国語の歌」も敬遠せず、試しに聞いてみては如何かな、と思うのです。




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