[ラ・フォル・ジュルネ]シューベルト:「白鳥の歌」 (3/14)

F.Schubert : Schwanengesang D.957, 5Lieder
(Sehnsucht D.879, Der Tod und das Maedchen D.531, Auf der Bruck D.853, Fischerweise D.881, Der Wanderer D.493)

 Nathalie Stutzmann (contralto)
 Inger Soedergren (piano)
 CALIOPE CAL9359

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのサイトはこちら

 いよいよ今日からチケットの一般発売も始まった、ラ・フォル・ジュルネでありますが、今年はシューベルトということもあって、声楽曲が目白押しです。

 歌というのには、詩が付いている以上、その内容によっては性差があります。何も難しい話ではありません。恋人であった娘の不実を嘆く歌であれば、まぁ歌ってるのは青年であろう、というように考えるのが、19世紀以前の歌曲であれば取り敢えずは自然というものでしょう。
 ただ、そうは言っても、だから"男性" の歌は女性は歌いません、"女性" の歌は男性は歌いません、とはならないものではあります。確かに歌詞の中での語り手の性別と、実際の歌い手の性別が一致するのであれば、その方がより「それらしい」ということにはなるのでしょうが、だから「歌うべきではない」とも言えないのでして。実際、歌うに相応しい声の持ち主なら、必ずしも性別にこだわる必要もないのでしょう。
 例えば、今回のラ・フォル・ジュルネでは、メゾソプラノの白井光子がシューベルトの歌曲集「冬の旅」を歌います。でも、この歌曲集、明らかに「主人公」は青年男性なんですよね。冒頭に挙げた「恋人だった娘の不実を嘆く」そのものなのであります。そういう観点からすれば、これは少々おかしいのではないか、とも言えるのです。
 でも、実際にそのようにして歌われるのが違和感があるかというと、必ずしもそうでもない、とも言えます。歌手の中には、そうしたことについてあまり前向きに評価しない向きもありますが、上手に歌えるのならいいじゃないか、という考えはあるのだと思います。実際、J-POPや演歌なんかで、女性が主人公の歌を男性が歌い、男性が主人公の歌を女性が歌っているケースは決して少なくないのですし。

 「白鳥の歌」は、必ずしも男性が主人公の歌曲集、という訳ではありません。そもそも、「冬の旅」や「美しき水車屋の娘」と違って、この歌曲集は全体にストーリーのあるものではなく、言わば単発の歌曲を集めたもの。とはいえ、そもそも詩を書いたのが皆男性で、内容的にも多分主語は男性と思われる詩ばかりです。なので、基本的に皆「男性の歌」ではあります。でも、ストーリー性が無い分、違和感は少ないかも知れません。もっとも、ここで取り上げたナタリー・シュトゥッツマンは、「冬の旅」だって歌っているのですから、「白鳥の歌」くらい不思議はないのかも知れません。
 一方、聞き手の話で言えば、私は日本語が母国語の日本人で、ドイツ語は分かりません。いや、多少は分かりますけど、ドイツ語で1分間スピーチしろとか、会話を成立させろとか、辞書無しで読めとか言われると、とてもとても。なので、そもそも女声で歌われているドイツ語の歌が何を歌っているのか、よく分かりません。ネイティヴだったら分かるであろう「変な感じ」がピンと来ないんですよね。予め日本語で意味は分かっていたりするけれど、歌われる言葉と、状況と、ニュアンスとが、リアルに理解出来てはいない。
 それってつまり、分からない、分かってない、ってことなんじゃないの?と言われると、一言もありません。それなりに調べてるとか、聴き込んでるとか、言い訳するつもりはありません。そう、自分でも思うけど、やっぱり「分からない」のです。

 でも、じゃぁなんでドイツ歌曲なんて聞くの?と言われると困ってしまうのですが.......... 実はやっぱり「わかる」んだと思うのですね。
 「白鳥の歌」の中に、「セレナード」という歌があります。「シューベルトのセレナード」として、何処かで耳にしたことがあるかも知れない。なかなかにおセンチなメロディですが、そんなことを言ってみてもなかなかに魅力的な曲です。でも、この歌で何を歌われているか、正確に御存知でしょうか?多分、大抵の人は御存じないのでは。いや、私だって一言一句知ってる訳じゃないです。
 「セレナーデとかいうんだし、恋人にあてて、愛してるとかなんとか歌ってるんじゃないの?大体が恋歌なんてそんなもんだし、それでいいんだよ。」はい、その通り。実際、そんなとこなんですけどね。「恋人よ、ここへおいで!」みたいなね。で、その程度の「分かり方」で聞いている我々が、じゃぁこの「セレナーデ」という曲を「わかっている」か、と問われれば、多分YESでありNOだと思うのです。
 こういう分かり方が結構横着なものだというのは、自分でも自覚はあるのです。本当は、ドイツ語ならドイツ語をある程度分かった上で、これはどんな歌か、と熟読玩味するべきだし、出来るべき、なのでしょう。それでなければ「分かった」ことにはならないし、なんで男性の歌を女性が歌うの?という違和感なんて本当はわかりっこない。
 でも、そうでなくても、我々は「分からない」ドイツ語で歌われる歌を聴いて、その旋律や、歌われる声の調子などから、大体どんな歌であるか、「わかる」し、その上で、音楽としていいか悪いか、ということも、相応に「わかる」と思うのです。その「わかりかた」が決して間違っているとは思わないのです。

 私の知人で、ドイツ語に一応堪能で、というのは現地で歌を勉強していたことがあるから、という人がいるのですが、彼に言わせると、例えば英国人のボストリッジのドイツ語はやっぱりおかしい、ということなのだそうです。別に当人がもっと上手いとか言ってるのではなくて、ボストリッジのドイツ語はネイティヴのそれと明らかに違い、フレーズの切り方がドイツ語の自然な箇所ではない、英語にとって自然な箇所だ、というのです。.......んなこと俺に言われてもわからん(笑)
 でも、彼は同時に、でもそれって聞き手にとっては別の問題かも知れないよね、とも言うのです。それにも私は同意します。聞き手にとっては、完璧に分かっている訳ではない「わかり方」でも楽しむに支障はないし、そうして得られる感銘というものが決して勘違いではないんだろう、とも思うのです。
 でないと、そんな風にしてしか歌曲やオペラを「わかってない」私はどうすりゃいいの(笑)でも、大抵の聞き手は、私と同様、そういう「わかり方」なんじゃないかな、と思うのです。それって、日本で伝統的に受け入れられているだけの考えかも知れないけれど、決して的外れではないと思うのです。
 「白鳥の歌」はレルシュタープ、ザイドル、ハイネの3人の詩人の詩を元に書かれた14曲からなりますが、ハイネの詩による曲の中にDoppelgaenger、「影法師」という歌があります。失恋した相手がかつて住んでいた家の前に、夜、誰かが立ち尽しているのを私は見た。おお、あれは、私自身ではないか!こんな夜更けにお前は何をしているのだ!そんな内容の歌です。ちなみに、自身の影法師を見た者は死ぬ、という言い伝えがあるそうで、つまりはこれはとても不吉な歌。その内容を示唆するように、シューベルトは極めて重苦しく、恐ろしい曲を付けました。
 内容的には男性が主語になる歌なのですが、男性が歌うと、最後は恐ろしいフォルティッシッシモで終わるのが常で、それは楽譜通りなのですが、シュトゥッツマンはそこまでの激しい終わらせ方はしていません。実はこれも楽譜通りで、要はどちらに力点を置いているか、の差だと思うのです。これはどっちがいい悪いではないと思うのです。シュトゥッツマンの「私」は、己の影法師に戦いてはいるけれど、同時に、その影法師が体現する「私」の哀しみに直面し、改めて動揺し、或いは悲しんでいる。そのようにも聞こえるのです。
 言葉が分からなくても、そういうことは一応わかることはわかる、と思うのです。

 声楽曲は言葉がよく分からないから苦手、という理由で敬遠される方もおられるのですが、それは勿体無いな、と思うのです。今度のラ・フォツ・ジュルネは、声楽曲が多く演奏されます。もう、今日から一般発売なので手に入らないかも知れないけれど、こういう機会に、「外国語の歌」も敬遠せず、試しに聞いてみては如何かな、と思うのです。




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