ベートーヴェン:弦楽四重奏 op.132 (4/5)

L.v.Beethoven : Streichquartette op.74, 95, 127, 132, 133, 135
 Melos Quartett Stuttgart
 CONCERTO ROYALE 206212-360

 ベートーヴェンの後期弦楽四重奏と言えば、ともあれ名作の誉れ高く、かつ難解、と言われています。だからこそ、これらの音楽について語りたがる人も多いし、語れること、わかることを滔々と語る人も少なくありません。ちょっと意地悪に言ってしまうと、概ねそうした人達はある種の知的興味を以てこれらの音楽を語るようでもあります。
 しかし、冷静に考えてみると、そもそも「音楽が難解」ってどういうことでしょうか?「音楽がわかる」ってどういうことなのでしょう?

 お察しとは思いますが、私はどちらかというとそうした人達に少なからず批判的であります。いや、そのような聞き方をしているだけなら構わないし、それを例えば自分の場で語る分には結構なのですが、それを他所に出張して礼儀も弁えずに人に押し付けたりする失礼な輩には誠に我慢がならないのであります。
 勿論、室内楽が好きで、そのようにも見える聞き方をされながら、礼儀を弁え、かつ自分のblogで責任を持って発言をされる方もおられます。私はそういう人に向かってどうこう言うつもりではないのです。ただ、今回から数回に渡って書き連ねていく中では、そうしたきちんとした方にも不愉快な内容があるかも知れないな、とは思うのですが、それは今回は申し訳ないけれど止むを得ないと思っております。御容赦下さいとは申しませんが....... 実のところ、その中には、私自身にも当てはまる内容は多々あります。そのくらいのことは分かっていますが、それでも言わずにはいられないのです。

 私は、正直に言って、「予習する」とか「聴き込む」とかいうのが大嫌いです。そうすること自体もどうかと思いますが、そのような考え方、そのような発想が嫌いです。浅薄だから。
 何故かと言うと、そういう人達の少なからぬ部分は、そうすることで「わかった」と言うからです。しかし、そういう人の多くは、実は何が「わかった」のでしょう?

 率直に言えば、「予習する」とか「聴き込む」の正体は、「繰り返し聞く」ということでしかありません。そして、ここがポイントなのですが、音楽というものは、個人差はありますが、繰り返し聞くことで耳に馴れるのです。モーツァルトが一回聞いただけで云々、てな話はありますが、何、常人だって繰り返して何回か聞けば、丸ごと覚えはせずとも「あ、これ聞いた」とばかりに耳に馴れて来るのです。その結果、どんなに聞き慣れない音楽でも、「生理的にダメ」みたいな拒否反応さえ無ければ、覚え、或いは慣れてくるのです。この効果は、聞く部分を細分化することで更に加速出来ます。
 昔、黒田恭一が「指環の攻略法」として、一ヶ月掛けて指環4夜を部分毎に聞いていって「ものにする」という話を書いていましたが、それがまさにこの効果なのです。ただ、黒田恭一は、そうすることで親しみを持ち、聞けるようになる、とは言っていたけれど、「わかるようになる」とは言わなかった。
 「聴き込んでわかるようになった」というのは、まぁ大抵はこの「馴れた」だけと考えていいでしょう。「馴れる」のと「わかる」のとは全くの別問題。馴れれば抵抗も無くなるし、取っ付きやすくなって、何事か蘊蓄を垂れる余裕も出るようになる。でも、それは、何かわかる、ということとは本来全く別の話なのです。それは、当人達が思っていることとは全く違って極めて幼稚なレベルの話に過ぎない。だって、ここでの問題は「馴れ」なんですから。だから、最初から馴れる必要の無い、取っ付きやすい音楽に付いて小手先で語ることと、レベルは何ら変わらないのです。
 でも、一生懸命「馴れた」人達は、自分達は手間暇掛けて取っ付きにくい音楽でも聞けるようになった、努力したんだから、だから自分のやったことにはある種の特異性がある筈だ、このように考えるのです。何、モー娘。の新曲聞いてどうこう言うのと、なんらレベルに差異はないのです。ただ単に時間を掛けて同レベルに持って来ただけの話で。その勘違いが有害である訳ですが。

 いや、そうは言っても、聞けなきゃ分かりようも無いんだし、決して有益でないわけではないだろう、と仰るか?それは確かにそうです。でも、問題は、そもそも「わかる」ということにあるのです。
 一生懸命な人達も、「わかる」為のステップとして聴き込んだりしたのでしょう。そうした人達に「難解ですよね」と尋ねれば、ある人は「難解じゃないよ」と言い、ある人は「確かに難解だ」と言い、まぁ大半は何れかでしょう。「難解」だからこそ繰り返し聞いて「わかろう」とする。
 しかし。「難解」という漢語は、訓読すれば「解り難い」「解き難い」となります。この「解る」「解く」という言葉は、通常、某かの論理性を伴った事物を「解る」、「理解する」時に使われます。「解く」は問題を解く、の解くですから、これも通常は論理性を伴ったものに使われます。
 しかし、音楽を「論理性を伴った事物」として「理解する」対象と看做す前提で考える、というのは、どういうことなのでしょう?ベートーヴェンの後期弦楽四重奏は、そういうものなのでしょうか?

 op.132の第3楽章は、40分以上掛かるこの曲でも、特に長い部分です。Molto Adagio。なかなかに情感の籠った緩徐楽章で、オリジナルの「大フーガ」op.133を付けなければ、この作品で最も長い楽章ですし、美しさを伴ったこの音楽は恐らくop.132の中心とされるでしょう。
 でも、そういう中心を持った音楽が「難解」、「解り難い」とはどういうことなのでしょう?この結論へ行く前に、この第3楽章と、ある面ではよく似た音楽について次回は触れたいと思います。

 って書いてから、有り難くも御指摘を受けました。そうでした、大フーガがくっつくのはop132 ではなくてop.130でした。おいおいしっかりしろって.....
 持つべきはちゃんとしたコミュニケーションが取れる他者であります。(有り難う御座いました>凛虞さん)



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