L.v.Beethoven

L.v.Beethoven : Symphony No.9 D minor, op.125 "Choral"
 Heather Harper (soprano)
 Alfreda Hodgson (alto)
 Robert Tear (tenor)
 Gwynne Howell (bass)
 The Sinfonia Chorus, Members of London Symphony Chorus
 Northern Symphonia of England
 Richard Hickox (conduct)
 resonance CD RSB504

 ベートーヴェンの第九交響曲です。日本では、毎年年末には数多くの公演が開かれる名曲ですね。
 さて。この曲、難解でしょうか?そう尋ねれば、恐らくは多くの人が「いや、難解とは言わないだろう」と答えるでしょう。いわゆるクラシック音楽のファンでなく、一般人で、第九くらいは聞いたことがある、という位の人なら、そのように答えるか、「難しくはないんじゃない?」と答えるか。そういう人が多いと思います。
 でも、第九は、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏のどの曲よりも長いし、複雑です。編成だって、弦楽器4本に対して、弦5部に管楽器群、打楽器群、最終楽章では更に独唱4部と合唱4部が入ります。こんな複雑で長い曲なのに、どうして「難解ではない」のでしょう?仮に、それが、言ってみれば気分的なものに過ぎないとしても、何故そのように思うのか?

 理由は幾つかあると思います。まず、何と言っても、繰り返し聞く機会がある、ということ。このことは既に前回も触れましたから割愛しますが、繰り返し聞くことが親近感を生み出し、「難解」「解り難い」という印象を持たせないようにする要素であること、それが実は音楽そのものとは直接には関係がない、ということです。
 更に、そうは言っても、その音楽に使われるパーツ、則ち主題がキャッチーなものであること。つまり、比較的覚えやすいものであることも挙げられるでしょう。
 そしてもう1つは、巨大編成であるということは、一方で音楽を複雑化するけれど、もう一方では色彩感を豊かにし、表現の幅を広げる、つまりは音楽の器を広げることになるからだと思います。複雑なものが狭い範囲に押し込まれていると、確かに受け止め難い。けれど、それがある程度の大きな器に入っていれば、受け取る方も取り敢えずは受け取りやすいし、更には、終楽章のように、聞くものを圧倒することで、取り敢えず受け入れさせてしまう、という技も期待出来るし。
 けれども、「難解ではない」とされる最大の理由は、恐らくは、第九には「プログラム」があるからだと思います。あの、「苦悩から歓喜へ」というやつ。この話は必ず第九を説明する際に持ち出されますし、場合によっては譜例を出したりしながら、この主題が何を表していて、という風に、楽曲分析と密に連携していたりする。それを辿るようにしていけば、第九という音楽が理解出来る、という仕組み。「理解する」という点から行けば、こうしたロジカルな理解の仕方が可能であるということは、「難解ではない」という見解の源泉としては有力でしょう。

 でも。もし、言葉によって説明されたプログラムを辿ることで理解出来るならば、そもそも音楽なんていらないんじゃないでしょうか?実際、ベートーヴェンが底本にしたのは、シラーの書いた「詩」なのですし。それを更に書き足すことがあるとして、言葉で説明出来るなら、音楽にする必要は無いでしょう。それとも、理解すべき内容はその程度のことで、それに対する効果としての音楽がある、ということなのか?でも、それなら、理解しているのは音楽ではないですよね。
 でも、頭で考え始めてしまった人達は、この、「理解する」というわかり方から逃れることが出来ません。かくて、解釈という名の毒物(薬物なんて可愛いものではないでしょう)中毒が始まります。ありとあらゆる己の持ち合わせの論理的アイテムを持ち出して「理解する為の形」を組み立て始めるのです。哲学、論理学、言語学、果ては物理学まで持ち出して説明をつけて「理解」しようとする。でも、それらは結局個々人が作っていて、尚かつ曖昧さに耐えられない人達が独自のロジックを組んでいるので、どうしたって普遍性は得られない。俺流トンデモ解釈が肥大化して生産され、しかも再生産に繋がることは無い。

 結局、音楽はそもそも理解する為に聞くもんじゃないだろう、と思うのです。

 ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を聞いて、大抵の人は、理解する・しないということは考えないでしょう。そういうことを抜きにして「楽しめる」かどうか、というところで聞いていると思います。全ての音楽が単純にそのようであるとは限らないにしても。

 第九の第3楽章は、プログラム的には、この交響曲の最終到達点からすれば、否定されるべき存在です。ここには安寧・安らぎと呼べるものがあるけれど、それは否定され乗り越えられなければならない。この点は、その安らかな音楽が後半で一度ならず破られる、という経緯からしても、ロジカルにはその通りなのでしょう。
 それはそうなのですが、にも関わらず、この第3楽章を愛する人は少なくありません。そうした人達は、この音楽が最終的に否定されるべきもの、乗り越えられるべきものとして書かれたことは重々承知の上で、それでもこの音楽を愛する、と語ります。その魅力、安らぎの音楽には抗い難い、と。
 これもまた、一種の中毒ではあるのでしょう。けれど、この人達の取るスタンスは、「正しいプログラムの理解」を一旦受容した先にあります。勿論彼らはそれが「より先へ進んだ態度」である、とか言う風には考えていないでしょうし、この「安らぎの音楽」という捉え方も又プログラムの影響に依るでしょう。それでも、頭で論理的に理解するのとは別の、音楽を聞いてどのように受け取り、味わうか、ということの結果である、という事は言えると思います。
 前回最後に言及した、弦楽四重奏op.132の第3楽章は、音楽としてはこの第九の第3楽章によく似ています。ただ、第九の方では、その音楽自身の内部でも、全体としても、乗り越えられるべき音楽として書かれているのに対し、op.132の方は、それ自体決して否定されるべき存在としては描かれていません。それだけに、率直に言えば、より中毒的に身を浸し、委ねたいという欲望に駆られるのですが、それは私だけでしょうか?

 ついつい頭で理解するしか出来ない、重度の知性ジャンキーには訊いても無駄なのでしょうけれど。

 第九について言及した以上、やはり第4楽章の問題、ひいては言葉と音楽の問題も避けては通れないでしょう。もう少し長い隘路を行くことになりそうです。





スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

プロフィール

verdi

Author:verdi
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2ブックマーク
FC2カウンター
118,000アクセスくらい+
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード