L.v.Beethoven

L.v.Beethoven : The complete piano sonatas (including op.109, op.110, op.111) [Disk 10]
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 454 621-2

 忙しさにかまけて、間が開いてしまいました。やれやれ。

 前回、「歌」なのに器楽的に扱われている、という話を書きました。しかし、何故それが問題なのでしょう?
 それは、歌というものが、本来は言葉と密接に関係したものである筈だからです。グレゴリオ聖歌やいわゆる賛美歌の類いは、その歌詞内容を正確に伝えると共に、その内容を音楽表現で補強する、という意味合いがあります。後に、歌詞内容を正確に伝える、という権能は衰えましたが、それでも歌われる内容に関連することには変わりません。

 言えば、第九の終楽章だって、歌詞の内容と関連はありましょう。でも、その関連というのは実はそれほど重くはなくて、音楽的に補強するというよりは、むしろ、音楽として作り上げる際、声楽合唱を使う為の一種の口実として使ってるのではないか、という感じなのですよね。別の言い方をすれば、他の歌詞でも、或いはそもそも合唱の代わりに別の器楽を使うことも出来なくはないと思うのです。

 聖歌や賛美歌は、基本的には歌詞を聞き取るのが前提ですが、バロック期のミサ曲や宗教カンタータは、むしろ演奏を通じて神を称えるという側面が強まります。そこでは、歌詞の聞き取りよりも、如何に荘厳であったり華麗であったりするかを強調したり、より完全な均整のとれた音楽を提示するか、の方に重点が置かれたりします。それでも、それらはまだ「歌」ではあったのです。歌詞に意味がある、或いは人が歌うことに意味がある。
 第九の場合、その辺が怪しいのです。もう人が歌ってなくてもいいんじゃないか、と。

 変奏、というのは、クラシック音楽の作曲法の基本中の基本でしょう。主題となる旋律を、リズムやテンポを変えたり、音程を変えたり調を変えたり、装飾音を付けたり、演奏する楽器を変えたり、と、バリエーションを付けて演奏していく。ソナタ形式も、結局はこの変奏の一種に過ぎません。
 歌と変奏というものがもう一つしっくりこないのは、そもそも「変奏」というものと歌とは親和性が無いのです。勿論、歌だってバリエーションが付くということはあります。でも、歌というものが「歌詞を聞かせる」というものであるなら、変奏などされると何を歌っているのかよく分からなくなってしまう。
 ちなみに、人の声というものに人間は鋭く反応するので、声を器楽のように使うのは実は難しい。合唱などを器楽的に扱う例は無いではないですが、独唱を器楽のように扱うのは、通常はヴォカリーズによるものくらいです。ちなみに、本当に楽器同様に扱うのは、いわゆる現代音楽を除けば、1例だけ、2楽章形式の「コロラトューラソプラノ協奏曲」というのが存在しますが、それくらいではないかと。

 さて、話を戻すと、変奏というのは、基になる旋律があって、それをどう加工したか、がポイントなので、元の旋律をつい追い掛けてしまうし、全然違うようでも大概は「ああ、この辺が一緒」というように分かる書き方をしています。なので、我々は聞いている内に、つい分析してしまうのです。「この変奏は、元の旋律に対してどのように変えているのか」という風に。
 この分析は、演奏する側にとってはやはり必要なので、どうしてもついこの視線で捉えようとする聞き手も出てきます。但し、ここがポイントで、演奏者というのは、音楽を構築する為にはその音楽がどのようなものであるか、全体像の把握も含めて構造を熟知しているべき(控えめに言っても望ましい)ですが、それが聞き方としてもあるべき姿か、と問われると、さて如何なものかと思うのです。
 変奏の全貌を捉える、というのは、言い換えれば各々の変奏がどのように出来ていて、どのような差異があるかを把握する、ということです。変奏曲の楽しみを、時間と共に移ろう景色の変化を眺めやるのに似たもの、とするなら、変奏曲の出来方・差異を予め分析して知覚しておく、というのは、次にどんな景色が来るかを知っていて、しかもそれがどのようであるかよりも、他と何処が違うかを重視して眺めているようなものです。それは、旅人の目線ではなく、観察者の目線です。

 クラシック音楽の場合、このような「知的アプローチ」とでも言うべき聞き方が、人によってはあるべき姿として賞賛されてしまうという面があります。このへんが、クラシック音楽を理詰めで聞こう、知的解釈を以て当たろうとする態度の因って来る所でしょう。それが、末期症状的には、某かの理論を援用し、それを無理矢理音楽に当て嵌め、形式的な類似点を見出して理解した気になってしまうようなところまで行ってしまうのです。

 しかし、音楽は何処まで行っても音楽でしかあり得ません。

 ベートーヴェンは、彼の「後期」と呼ばれる時代に於いて、変奏曲を多用しました。元々、即興ピアニストとしての腕前を武器にしていたベートーヴェンには、若い頃からピアノ曲を初めとして変奏曲の作品は数多かったのですが、それをより積極的に様々な楽曲で使うようになっていったのが後期。弦楽四重奏曲、第九、そして後期三大ピアノソナタ。ソナタという形式自体、かなり崩していった時期に、主題と変奏という、見ようによっては最もプリミティヴな方式で、しかも結構長く内省的な作品を多く書いていったのは、やはりベートーヴェン自身がこの形式に拘りを持っていたからと思えてなりません。いや、ここに取り上げたop.109など、この変奏曲を書きたかったから、最初の2楽章を付けたのではないか、とさえ思えてくるのです。勿論、それだけの価値がある作品だとは思いますけど。

 ブレンデルは、いわば知性派のピアニストということになっていますが、実際の所はどうなんだろうな、と思う時があります。このop.109の第3楽章の変奏曲にしても、純粋に器楽曲でありながら、知的解釈を超えたアプローチを聞かせてくれます。むしろ非常に抒情的な演奏です。聞く方の思うほどのウェイトが、分析的な解釈にかかっているわけではないのでしょう。

 次回は、もう一つの「抒情的な変奏曲」の話をして、ベートーヴェンにとっての変奏曲が後期に多用された理由を考えようと思います.



AUTHOR: moriyan DATE: 04/16/2008 10:46:13 ニィハオ ニィハオ モリやんです、本日もよろしく (^.^)
毎度 毎度ありがとうございます。
週末は日本で食事ができます (^0_0^)

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